聴松閣

祐民氏が、1934年(昭和9)にインド・タイなど、仏跡の地を旅行した時のイメージをこの建物に写したといわれています。外観は山荘風、室内はチューダー様式・中国風・インド風などがミックスされ、施主の趣味、遊び心、センスがふんだんに盛り込まれており、豪華さ・重厚さには目を見張るものがあったことでしょう。しかし、加齢と改装、一部被弾によって今では痛々しささえ感じられます。  先日、インドの女子留学生を案内したとき、戦前のインド留学生が地下ホールに残した、ヒンズーの女神の壁画や、砂岩の柱、壁にあるインド模様のレリーフやモザイクタイルに息を呑み、しばし感嘆の声が絶えませんでした。この怪しげなムードを漂わす壁画も剥離が進みつつあり、早急な修復が必要です。また、前稿で触れたトンネルについては、復元が期待できる個所は、唯一「聴松閣」の入口部分のみですが、ここを発掘することによって、施主の構築意図が解明できるかもしれません。  「聴松閣」で再現したい一番のビジョンは、地階南のガラス窓です。ここには、カンチェンジャンガ(ヒマラヤ山脈第3の高峰、8,586m)の雪嶺がガラス彫刻で施されていたことが「揚輝荘主人遺構(1942年竹中工務店)」の写真で確認できます。昼間は南側のハイサイドガラスからの太陽光により、夜は特設照明によって、幻想的な光景が浮き出てくる仕掛けになっていました。祐民氏は、自著『戊寅年契(ほいんねんけい)』で「10月20日、ヒマラヤ雪山を見る、月絶佳」と称えています。この幽玄な世界を再現することができれば、施主の「揚輝荘・聴松閣」構築の衝動と情熱とを読み取ることができるでしょう。その他、吹抜け部分などにある木枠の間接照明や独身寮用に小割りにした1階の大食堂、2階のインド間・中国間などが蘇れば、当時のゴージャスな雰 囲気を取り戻すことができるでしょう。



邸内地図


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