聴泉窟

揚輝荘の敷地内には地下トンネルが掘られていました。1937年(昭和12)の聴松閣の竣工と同時に造られたと考えられます。総延長170m、幅1.8m、高さ2m、鉄筋コンクリート製、厚さ25pの立派なトンネルです。
 南北の70mは聴松閣の地下ホールの入り口から北の有芳軒の地下まで、途中高さ5m直径7mの八角形のドームがありました。ここから東西のトンネルは90mゆるい勾配で下っており両側に排水路があり水が流れていました。このトンネルは何の目的で造られ、どのように利用されたのでしょうか。1945年(昭和20)3月24日未明から翌朝にかけての空襲で揚輝荘に爆弾が落ち数棟の建物が燃え、住人達と周辺住民の多くが避難し助かっています。また三菱重工の大幸工場でゼロ戦の部品の製作に従事していた学徒動員生達も空襲の度にこのトンネルまで避難しています。昨年その方々が訪れ聴泉窟とトンネル入口に書かれていたと伺いました。しかし空襲を予想しての防空壕としてだけでなく、トンネル完成の前年には226事件、翌年に日中戦争が始まり国内外で不穏な時代、揚輝荘には皇族、政治家、軍人達が頻繁に訪れていたため、避難用として造られたのか、又普請道楽の祐民が訪れた人々を驚かす意味で造らせたのか今では記録になくミステリーです。
 なお1944年(昭和19)に名古屋で死亡した汪兆銘をかくまう計画もありました。 残念なことにこの貴重な謎を秘めたトンネルも平成17年から始まったマンション建設工事のために取り壊され、聴松閣の地階から20mほどが残るだけと成りました。
 東西に伸びる90mのトンネルは昭和43年のマンション建設時に取り壊されたと思っていましたが、2007年3月に駐車場棟の建設現場から東出入り口が偶然発見されました。
 五色玉石のアーチ橋の入口には「聴泉窟」と書かれ、中は土砂で埋められていましたが、調査堀りの結果、左右にインド様式の柱と五色玉石のベンチが発見されました。揚輝荘にはこの意匠で造られた橋、藤棚などが多く、このアーチ橋「聴泉窟」も貴重な遺産として保存されることになりました。


邸内地図

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